味土野女城
別名 細川ガラシャ隠棲地 御殿屋敷 |
付近住所 京都府京丹後市弥栄町須川 | 現在- | |
2010/4/29 | 碑・案内板アリ |
細川ガラシャ | 細川ガラシャ略伝 細川忠興の妻、玉子(玉)。永禄6年(1563年)明智光秀の三女として生まれる。天正6年、16才の時織田信長の命により後に丹後田辺城(現舞鶴市)の城主となる細川幽斎の嫡子忠興に嫁いだ。天正10年6月本能寺の変により、父光秀が信長に謀反を起こした。光秀は忠興を味方に誘ったが、忠興はこれを聞かず玉子を離別幽閉し自分は羽柴秀吉軍として出陣し、光秀と山崎で戦った。玉子の実父光秀の死後、家臣は自害をすすめたが「私は忠興の妻、主人の命を聞かずして事を決することは婦道にそむくことです」とこれを聞き入れず、愁思のうちに2年の月日をこの地で過ごすこととなった。秀吉はこれを憐み忠興は再び妻として玉子を迎えた。 その後キリスト教に入信し、「ガラシャ」の洗礼名を受けた玉子は、忠隆・忠秋他三子を授かった。しかし、平穏な日々も束の間、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで、徳川家康に従い東征についた夫忠興の留守に大阪細川邸にあった玉子は石田三成の軍勢に囲まれ、人質として大阪城へ入城を迫られたが「私が人質として入城すれば堅武士の夫忠興の足手まといとなります」と自ら邸宅に火を放ち壮烈な最期をとげた。享年38才夏のことである。辞世の句は勇名である。 散りぬべき時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ 数奇な運命に彩られ、夫忠興のために殉じて果てた玉子の生涯は戦国の世に咲いた一輪の花として現在に語り伝えられている。 身をかくす里は吉野の奥ながら 花なき峰に呼子鳥啼く 玉子 |